約1か月間に渡り、日々熱戦と感動を繰り広げた「2020東京オリンピック・パラリンピック」が閉幕した。
世界的なパンデミックによる開催延期、緊急事態宣言下での開催という異例づくしの開催ではあったが日本のアスリートたちは、オリンピックでは史上最多となる金27個を含む計58個のメダルを、パラリンピックでは金13個を含む計51個のメダルを獲得。中でも新世代アスリートの目覚しい活躍は世界に向け日本のスポーツ界の脅威と可能性をアピールすることになった。
実はオリンピックはじめ国際的な大型イベントと日本のデザインの発展には深い関わりがある。例えば今では当たり前に使われているピクトグラム。世界初のスポーツピクトグラムは、1964年東京オリンピックで初お目見え。世界各国から来日する日本語がわからないアスリートや観客に、「どんな競技が行われるのか」を一目で伝えるために開発された。それぞれのスポーツにおいて象徴的なシルエットが、全身または一部のパーツで表現され以降も開催国の個性を反映させる形で毎回デザインされている。まさに日本人特有の細やかなおもてなしの心がデザインとして表現されている。
また、1970年に開催された「1970年大阪万博」は「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、理念や理想を真剣に考えるテーマ性と、来場者が純粋に楽しめるエンターティメント性、独創的で希望を感じさせる未来像の提示の三点がうまく融合し183日間で計 6,421 万 8,770 人という驚異的な来場数を記録。国立代々木競技場の設計者でもある丹下健三と芸術家岡本太郎が協働した、お祭り広場と太陽の塔で有名なシンボルゾーンも高い抽象性によりメッセージ性を表現。50年以上経った現代でもその存在感やメッセージは我々に響き続けている。
大阪万博の成功の要因はそれだけではない。イサム・ノグチなど当時の大御所的と共に、磯崎新(38 歳)、黒川紀章(35 歳)、横尾忠則(33 歳)、石岡瑛子(31 歳)、コシノジ ュンコ(30 歳)、ちばてつや(30 歳)など、その後、世界的にも大活躍する人材を積極的に登用し活躍の場を与えたこと。当時の雰囲気を象徴するエピソードとして、横尾忠則のエキセントリックなデザインで有名となった「せんい館」に纏わるものがある。出典組織の日本繊維産業連盟会長の東洋紡の谷口豊三郎氏 は「あなたの芸術論は全く理解できない。だが情熱はわかった。いいだろう。好きにやってくれ」と発言したと言われている。
*( )は当時の年齢
そして2025年、大阪で再び万博が開催される。4年後の日本、世界がパンデミックの脅威に打ち勝ちコロナ以前の生活スタイルを取り戻しているという希望的観測も込め2025年大阪万博は、日本が世界に向け英知と技術力、センスをアピールできる絶好の機会と言える。
日本人特有の細やかなおもてなしの心がデザインとなったピクトグラムのような世界に誇れる“新たなデザイン”や世界が驚愕する新たなクリエイターやクリエイティブが数多く誕生することに期待したい。
出典:カラー版 日本デザイン史 (美術出版社)https://bijutsu.press/books/2953/
No related posts.